天上からふりそそぐ、ひとすじの陽の光を、幾千もの光の粒にかえて天に返すように、水面から絶えることなく光が立ち昇っている。陽はだんだんと西へ傾き、河端に腰掛ける私の頬を真横から照らし、私に家路を思う気持ちを強くさせる。一日中ふりそそいだ陽の光の、すべてを天に返そうと、荒川は、広い河幅のぜんぶをつかって光を受けてはきらきらと返す。それを見ながら思う家路は、河口の遠く向こうより、なお遠い。
まだ若い芝にすわり、手のひらでその感触を確かめながら、上流に目をやると、すこし向こうで
電車が河を渡るのが見える。コトンコトン、と遠くその音を聴き、鼻から大きく空気を吸った。
若草のにおいに混じって水のにおいがする。土のにおいに、塩も混じったそれは、海に近い独特な水のもの。そしてそれとは別に、空気の中に湿ったにおいも感じられる。それはそろそろ雨がふりだす季節と教えてくれる。
季節は一年で八度かわる。そして私はその八度ここに座る。春の初めと春の終わり、夏の初めと夏の終わり、秋の初めと秋の終わり、冬の初めと冬の終わり。連続する季節のなかに、はじめも終わりもあるものかと、
東京で生まれ育った友人が、笑っていたのを思い出す。
だが、季節には必ずはじめと終わりがある。私だけかもしれないが、私にはそう見える。そして水の風景も一年で八度かわる。春のはじめに花が咲き、春の終わりに花が散る。夏の初めに緑が茂り、夏の終わりには夕日のほうから寂しい風が吹く。秋の初めに色づく木々は、秋の終わりに葉を落とす。冬の初めに町は人工的に色をつけ、冬の終わりには人々が色づき始める。草木の色や町の色、人の色から空気の色まですべてが一様に変化する。水面はそれらのすべてを写し、写ったそれらを私は見る。春の終わりと夏の初めは違うのだよと、水面にすべてが写っては流れていく。
人の心をのぞいたときも、水は私に教えてくれる。ただひろく、ゆったりと、こなせばいいと教えてくれる。私はそれを水面に見る。ただただひろく、ゆったりとしたその水面の、あるがままを見つめている。その下でなにが起こっているかなど、気をつけようとしたことがないことにはっとして、人の心を
はじめて知る。
水は音を立てているのだろうか、一度耳をすませてみたことがある。ごうごうと聴こえるそれが水の音かはわからないが、とても寂しく心に響いた。水の声ともわからぬ音を、水の声とはいえぬだろうと、耳を閉じ、また、見つめた。聞こえぬ声ほど寂しく響く。だから私は水面と目に、写るままだけ受け止める。
私が東京に出て、もう十年が過ぎようとしている。東京の地理などなにも知らず、この河口近くの町に部屋を借り、仕事についた今でもこの町を離れられないでいる。移ってから数年が過ぎたとき、私ははじめてこの河に見入った。一人になってじっくりと川面を見つめていると、私に語りかけようとする河がそこにあるのに気がついた。以来墨田川、
江戸川にも時々足を運び、じっと河と向き合った。しかし、荒川ほどに写すものは多くない。余所行きな自分がそこにいるからであろう。とはいえ、私にとって東京は水の流れと切りはなせない。だから、私はこの流れのそばにずっと身をおいて暮らしている。
私の見つめる荒川は、その向こうに海があり、風の気分によっては海をすぐそばに感じるときもある。海の空気を感じたとき、河口を眺めながら目を閉じると、いつも閉じた
まぶたの裏に、同じ画が思い浮かぶ。
羽が生えたように飛び立つ私。輝く河面を真下に見て、軽やかに河口へむけて羽をふる。きらきらと立ち昇る光につつまれ、顔を上げると正面から沈み行く陽の光が顔を打つ。目を細めて河口を抜け、海へ出て、東京湾の縁をなめるように沿って飛ぶ。そうしてそのまま
横浜をこえ、三浦半島をこえ、
湘南を右手に捉えてしばらく飛び続けると、だんだん
富士が目前に迫ってくる。雄大な富士の姿に見とれながらも先を急ぎ、富士に一礼する間もない。渥美、知多の両半島からずっと西へすすみ、紀伊半島も右手に捉えて越える。そこからすこし北上して、播磨灘から小さな島々をたどって進む。
広島の安芸灘、
山口の周防灘、ずっと下って関門海峡を渡る。どの海もどの海も、きらきらと光を上げては、急ぐ私の後ろに流れていく。九州の陸が見えたら後は、陸に上ってまっすぐ行けば、黄色い屋根の家の庭、母が洗濯物を家にしまう姿が見える。
まぶたの裏で、鳥のようにひといきに、母のもとへと飛び立つ画。日本の腹をなでるように、太平洋岸をとびさえすれば、遠く離れた故郷の母にいつでも会える。
荒川の、河口を遠く眺めると、そこにはいつも母がいる。そしてその方から、私の頬を照らす、ひとすじの光。川面は幾千もの光をたたえ、陽の光を天に返す。私はただ頬に光をうけるだけで、返す術を知らない。
水は、私に教えてくれる。聞こえぬ声に耳を向けても、寂しさは募るばかりだと。だから、ただじっと見つめていればいい。思いをはせればいい。ひろく、ゆったりと流れてゆけば、おおらかなる水のように、心は海へと続くだろう。そして、その先へも続くだろうと。
私はいま、この河端に座る。遠く離れた人を思うその時、私は東京を生きている。
了
posted by pinkyslider at 20:11|
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